島田まり物語

1.誕生~青春時代

 

昭和3311月、広島県福山市で3人兄弟の末っ子として生まれました。

父は戦艦大和の乗組員の数少ない生き残りであり、両親とも教師の家庭で育ちました。

写真:4歳の頃


中学・高校の6年間、硬式テニス部に所属。広島・岡山合同大会では、ダブルスで“ベスト4”に。青春の思い出を刻みました。     【写真:テニスで得意のサーブ

 

大学進学の時は、難聴の姉の影響を受け、人の役に立ちたいという思いと、チャレンジ精神旺盛な母の進めもあり、全国に3校しかない国立の理学療法士の養成校の受験を決意。

 大好きな語学への夢もあきらめ切れず、大阪外国語大学Ⅱ部の受験も決めました。養成校は倍率15倍という難関。しかし、持ち前の精神力で、必死で受験勉強に挑戦。2校とも合格を勝ち取ることができました。
 

2.大阪での学生生活

合格後、大阪市阿倍野区で初めての一人暮らしを開始。昼は、理学療法士の養成校、夜は、外語大に通学。

あまりの忙しさに、専門学校の教官からは、「中途半端になるから、大学はやめた方がいい」とのアドバイスも。

しかし、周囲の励ましと持ち前の粘り強さで、毎日10時間を超える勉強と実習に挑戦。見事両立を果たすことができました。

一方、生活は決して楽ではなく、3ヵ月、インスタントラーメンを2つに割って一食にして、勉学を貫いた時期もありました。

こうした学生時代の苦労は、人生の大きな財産となりました。

     【写真:国立近畿中央病院附属リハビリテーション学院を首席で卒業

 

3.理学療法士として出発、そして結婚

1980年、専門学校卒業と共に、理学療法士の国家試験にも晴れて合格。医療現場の第一線で働くことになりました。

就職後も、夜は夜学に通い、3年後に卒業の栄冠を勝ち取りました。

その後、学生時代に出会った夫と結婚。働く母としては、夫の母や姉の協力を得て、2人の子どもも母乳で育てることができました。

【写真:結婚式(28歳)

4.技術を磨き、奮闘の日々

理学療法士を始めて間もないころ、医師の高い要求に応えられない自分がはがゆく、打ちのめされる日々が続きました。

しかし、自分を何度も励まし、技術を高めながら、障がいをもつ子ども、そしてその母に同苦し、心のケアをしながら奮闘。

その結果、7年間で笑顔で巣立った障がい児は、2000人を超えました。

笑わない子に“笑顔”が戻り、動かなかった手足がリハビリで動くようになった我が子を見て涙される母の姿に、「この仕事をしていて本当に良かった」と充実を感じる毎日でした。

また、1990年ごろには、自身の出産と育児の時期が重なり、子育てをしながら働くことが、どれほど大変かも痛感しました。

【写真:理学療法士時代

 

5.突然の転機―大阪市会議員へ

 

2006年、転機が訪れました。市会議員候補としてお話を頂いたのです。その使命の大きさを思い、自分にできるのか、悩んでまったく眠れない夜もありました。

しかし、「私でお役に立てるのなら、あえて困難に挑戦し、新しい使命の場で、自分らしく頑張り抜こう!」と、出馬を決意。

そして、大応援を頂いて、2007年に初当選、2011年に2期目の当選を果たしました。

この2期8年間、大阪市議会議員として、大阪・阿倍野の発展のため奔走。様々な政策を実現しました。   写真:初出馬の街頭演説(H19年3月)

 

そこには、理学療法士“26年間”の現場経験で培ったプロの視点が、大きく生かされています。

 たとえば、「7119」で有名な「救急安心センターおおさか」を創設。今では大阪市から、大阪府下全域に展開されています。

「児童虐待ホットライン」(0120-01-7285)の開設や、発達障害児支援のほか、公立中学のクーラー設置や校舎の耐震化 完全実施など、学校基盤の充実にも力を入れています。

 課題を鋭く見つけ、的確に実行し、実現する――それが島田まりの魅力であり、強さです。

写真:委員会にて質疑